高倉健さん死去 83歳、悪性リンパ腫
日刊スポーツ 2014年11月18日11時46分
日本映画を代表する俳優の高倉健さんが10日午前3時49分に悪性リンパ腫のため都内の病院で亡くなった。83歳だった。
高倉さんは映画「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」シリーズなどで活躍し、「新幹線大爆破」「幸福の黄色いハンカチ」「八甲田山」「南極物語」「鉄道員(ぽっぽや)」などの主演映画はいずれも邦画史上に残る大ヒットを記録している。06年文化功労者。2013年には文化勲章受章した。
任侠映画時代はともかく、晩年の作品ではセリフを超えた圧倒的な存在感が、いわゆる俳優らしいというかスターとはかくあるべきという姿を体現していたように思う。日本映画全盛時代に多大に貢献し、本当に最期の大物俳優だったと思う。長い間お疲れ様でした。ご冥福をお祈りいたします。
本名/小田 剛一 (おだ ごういち)
生年月日/1931年2月16日
没年月日/2014年11月10日(満83歳没)
出生地/福岡県中間市
死没地/東京都
身長/180 cm
血液型/B型
職業/俳優・歌手
活動期間 1955年 – 2014年
配偶者/江利チエミ(1959年 – 1971年)
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大スターの訃報につき、経歴等は各所で報じられるようですから人柄だけをWIkiより転載。
人柄
礼儀正しい人物として知られ、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。
1984年の日本生命のCMでの「自分、不器用ですから」の台詞で武骨で寡黙なイメージがあるが、実際は常に誰かが側に居てほしいと言うほどに話し好き、いたずら好きで、ユーモアを交えながら共演者やスタッフを和ませている。またロケ先では周辺を散策し、地元の住民との交流も欠かさない。
千葉真一は高倉を “ 一生あこがれの存在で永遠の師匠 ” と公言している。「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった」、「(千葉が)東映の労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった」と語っている。
役者として人間として尊敬している人物は多く、『幸福の黄色いハンカチ』で共演した武田鉄矢は、現場で高倉を発見すると100メートルほど離れた所からでも「健さーん!」と叫びながら手を振り、全力疾走で走ってきたという。石倉三郎、小林稔侍、板東英二らからもこよなく慕われており、石倉は芸名に「倉」の字をもらい、小林も息子の名前に「健」を付けている。
気持ちの通じ合った共演者にはブライトリング、ロレックス、ヴァシュロン・コンスタンタンなどの腕時計やライターなど、記念の品に感謝の言葉と「高倉健」の名前を彫ったモノをプレゼントする習慣があり、千葉真一、田中邦衛、渡瀬恒彦、板東英二、宇崎竜童、ビートたけしが貰っている。田中も高倉をこよなく尊敬し、出かける際にはその時計を身に付けている。『あなたへ』で共演した岡村隆史は撮影現場での取材中、「岡村! 嘘ばっか言ってんじゃないよ(笑)!」と近寄ってきた高倉から、「忘れもんだよ」と高倉の私物であるポルシェ911のキャップ(帽子)にオリジナルのバッジが添えられた物を、プレゼントされている。
『ブラック・レイン』で共演したマイケル・ダグラスは大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃。その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた。『君よ憤怒の河を渉れ』が中華人民共和国に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。高倉のファンである映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している。2006年4月には北京電影学院の客員教授に就任している
『夜叉』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉がロケ現場へ激励に現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた。撮影初日が終わり、役者・スタッフの泊まる旅館へ到着し、食堂へ行くと、高倉と監督の前だけ、皆とは違った「ふぐ刺し」が並んでいた。これを見た高倉は「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と遠慮し、手をつけなかったという。突然の事で数も揃わないことから、高倉と監督以外は「カワハギの薄造り」で急場をしのぎ、事なきを得たという。
漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした。昼間に高倉とたけしが車に同乗して移動していた時に、渋谷駅ハチ公改札前近くのスクランブル交差点で信号待ちの為に停車したところ、高倉は窓を開けていきなり「おーい、高倉ー!」と大声で何度も車外へ叫び続け、信号が変わり車が走り出すとようやく窓を閉めて元に戻り「いやあ、こんなに沢山の人が通っているのに、誰も気が付かないもんなんだなあ、俺がここに居るって」と独りで喜んでいた。高倉とたけしが車に同乗していることを多数の一般人に知れてしまうと、野次馬で混乱が発生する危険性が容易に予想されたにも拘らず、大都会での他人に対する無関心を逆手にとって面白がっていたとたけしが語っている。