朝ドラ「マッサン」のモデル、竹鶴夫婦の愛 リタ、石投げられた時代も だと?

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withnews 10月3日(金)7時50分配信

withnewsでは、朝ドラ「マッサン」の主人公エリーのモデル竹鶴政孝さんとリタさんはどんな夫婦だったのか。二人の出会いや、リタさんの日本での奮闘ぶりを紹介している。

massan1 二人の出会いはスコットランドだった。
竹鶴政孝は広島県の造り酒屋の三男として生まれ、大阪高等工業学校(現在の大阪大工学部)の醸造科を出て大阪の摂津酒造に就職。ウイスキーの製法を学ぶため英国・スコットランドに派遣されていた。
グラスゴー大学に籍を置いていた政孝は、柔道を教えるため、ある少年の家に招かれ、その姉リタ(本名ジェシー・ロベルタ・カウン)と出会った。その頃、彼女は第一次大戦で婚約者を亡くし、同大の経済学科に通っていた。政孝はリタに求婚。「あなたが望むなら、日本に帰るのを断念して、この国で職を探してもいい」という政孝にリタはこたえた。「私たちは日本へ向かうべきです。日本で本当のウイスキーを造ること。私もその夢を手伝いたい」。
日本人になりきった、でも石を投げられた時代も
「リタほど日本人になりきった外国人も少ないと思う」と政孝が語るように、リタはプロの主婦として、家族と、家族を支える仕事に愛情と誇りを持ち、楽しく義務を果たしていたようだ。
高熱を出しても、「私の仕事です」と台所に立った。トウモロコシをゆでるときは、湯をわかしてから畑でもぎ、たくあんは食べる直前にたるから出した。温かい昼食を綿を入れた布で包み、工場へ届けたという。政孝が留守の時にはいそいそと洋食を作るといった「息抜き」もしながら、普段は日本風に夫をたて、尽くした。それにこたえるように典型的日本男児であった政孝も、リタの誕生日には愛の言葉を添えた本などを贈り、夜はともにウイスキーを楽しんだという。
第2次大戦が始まると、町に出たリタは石を投げられることもあった。特高警察に尾行され、ラジオのアンテナは暗号発信器と疑われた。戦後、息子の妻である歌子さんに「戦争中は、鼻を低くして髪を黒く染めたいと思ったのよ」ともらしたという。
お気に入りだった余市の風景
しかし、スコットランドによく似た北海道・余市の風景を、リタは気に入っていた。余市川にかかる田川橋の上で、足をとめ、そこから見える夕映えのなだらかな山並みとフゴッペ海岸をうっとりと眺めていたという。
晩年、リタは肝臓や肺を病み、政孝がよく滞在する東京に近く、治療にも便利な神奈川・逗子で過ごすことが多くなったが、1960年秋には、どうしても帰りたいと余市へ戻った。クリスマス前夜、窓の外では、リタを思い近所の教会の信者たちが賛美歌を歌ったという。
1961年1月17日、リタが亡くなると、政孝は自室にこもり、涙に暮れた。葬儀の相談にも出てこなかった。葬儀が終わり、玄関を出ようとしたひつぎを政孝は何度も何度もなでたという。
余市にこだわった二人は、今もウイスキー蒸留所を臨む余市の地に共に眠っている。

かつて仕事のついでに、ついでというにはかなり足を伸ばして余市のニッカウヰスキー蒸溜所を訪れた事がある。下戸な人間が蒸留所など見学したのは、まがいものをイメージ広告であざとく売りつける大会社とは違い、真っ当なウィスキーを作る、文字通り日本人のもの作りのへの精神、スピリッツを造っていた竹鶴政孝の足跡に触れたかったからだ。ま、竹鶴ももともとはその大会社の社員だったのだが。金、利益優先の体質とは相容れないのも無理はない。朝ドラの方は美男美女で設定されたのは致し方ないのかもしれないが、少々リアリティが薄い。がんばってほしい。